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宮廷のみやび

2008-02-07 Thu 23:54
国立博物館の近衛家1000年の名宝展にいってきました

というのも、日本史専攻の友達に誘われたのですw
一緒にどっかに遊びに行ったのははじめてだったから
誘ってくれたことがとっても嬉しかった☆⌒Y⌒Y⌒ヾ(o´Д`)ノ ヒャッホーウ♪


で、近衛家
五摂家のひとつといっても何がなにやら・・・

近衛家と言われてピンと来ない人は
藤原氏といえばわかるでしょうか

中臣鎌足が藤原姓をもらってから藤原氏がはじまって
んでおなじみの不比等がでてきて
途中で房前、宇合、麻呂、武智麻呂の藤原四家ってのに分かれるんだけど
近衛家はこのうち房前(ふささき)の北家の系統です

近衛基実を祖としているんだけど、私ここらへんあんま詳しくないのでwikipediaの力を借りますと、

近衛 基実(このえ もとざね、康治2年(1143年) - 仁安元年7月26日(1166年8月23日))は平安時代末期の公卿。父は藤原忠通。母は源国信の娘・信子。子に近衛基通、粟田口忠良がいる。妻は藤原忠隆の娘、平清盛の娘・盛子などがいる。

1150年、8歳で正五位下、左近衛少将に叙任される。その後も父と後白河天皇の引き立てがあって権中納言・権大納言を経て1157年には正二位、右大臣に叙任される。そして翌年8月には16歳の若さで二条天皇の関白にまで栄進し、藤氏長者となった。

1160年には左大臣に叙され、1165年には六条天皇の摂政となる。しかし翌年7月26日、わずか24歳の若さで病により死去。死後、正一位、太政大臣を追贈された。

なお、この基実から始まる系統が、後に五摂家の一つとなった近衛家である。 また、容姿は色白、痩せていて、美男だったという。



だそうな(笑)


そんでもってね
戦争史が好きな人なら知ってるであろう近衛文麿も、近衛家の1人です

近衛文麿は三回日本の総理大臣をやった人でね。
私の考えとしては、
彼が日本を第二次世界大戦へ導き
戦争を泥沼化させたと思っています



それからそれから、
この近衛文麿の次女が細川家(肥後熊本藩主、要はこっちもかなり名家なのね)にとついで子供生みました
それが細川護熙で、自民党から野党の連立で政権交代を実現させた時の総理大臣なわけですねえ

何が言いたいかっていうとだねえ
それだけ近衛ってのは長く続いた名家なわけです

細川護熙が昔
「先達ての大火で我が家が燃えたときに・・・」
という話をしたそうなんだが、
普通大火っていわれたら第二次世界大戦を思い浮かべるもんだけど
ところがどっこい、第二次大戦で彼の家は燃えていない

じゃー彼の家が燃えたのはいつか
応仁の乱なわけですよ

彼のいう「大火」は1467年までさかのぼっちゃうわけだ・・・




逆に言えば
近衛家がもってる史料は
応仁の乱以降燃えていないわけで

それはそれはものすごい量の史料が残ってるのね
もう、国宝・重要文化財・重要美術品のオンパレード!

どれも素通りできないものばかりですみからすみまでじっくりみてきましたー

文書とかがんばって読み解こうとしたけど無理w
つか、量が本当にハンパなすぎる・・・

1時~閉館の5時まで休むことなくず~~~っと見てたけど
そりゃぁもうヘトヘトになりましたさぁwww



近衛といえば上に書いた人物のほかに
寛永の三筆の1人である近衛信尹(のぶただ)が有名で
今回の特別展でも彼の作品がたくさんかざってあったわけよ

でも私はあまり彼の字は好きじゃないなぁ
見る人がみればわかるのかもしれないけど
あんまり上手だとは思えなかったw
ただイキイキと書いてあるだけって言うかw


それよりもね
近衛家熙さんてのがいて、私は彼の存在を全く知らなかったんだけど
これがすっごい人なんだわぁ

字めっちゃかっこいいし
いろんな字体が書けるのね
写経のようなかしこまった字とか
流れるような字も書けるし
すごく細い線と太い線の使い分けも上手だし

絵もうっまいの
日本画も書けて中国画にも挑戦してて
(あまり、日本画とくらべると・・・だったけどw)
細密画も、もう、すっごい線細いし!
よく筆だけであんな細い線かけたなーーっていうか・・・

写真撮影禁止で撮ってこれなかったのが残念!
彼のすごさは、見ないと・・・

それくらいすごかった!


あんな人がいるなんて知らなかったなー

ちょいと、またwikipediaで調べたものをのせておくと

近衛 家熙(このえ いえひろ 寛文7年6月4日(1667年7月24日) - 元文元年10月3日(1736年11月5日))は、江戸時代前、中期の公家、摂政関白。父は近衛基熙。母は後水尾天皇の皇女・常子内親王。正室は霊元天皇の皇女・憲子内親王。子に近衛家久、中御門天皇の女御尚子、尾張藩主徳川継友の室安己君、徳川家宣の養女となる政姫。

寛文7年(1667年)6月4日に京都で誕生。幼名を増君と称した。延宝元年(1673年)11月に元服し、従五位上に叙せられた。同時に昇殿を許される。延宝4年(1676年)1月に従三位に叙せられる。貞享3年(1686年)3月、20歳で内大臣となる。元禄6年(1693年)8月に右大臣、宝永元年(1704年)1月に左大臣。宝永4年(1707年)11月関白に就任する。宝永6年(1709年)に中御門天皇の摂政となり、更に翌年の宝永7年(1710年)に太政大臣に任ぜられる。正徳元年(1711年)7月太政大臣辞任。正徳2年(1712年)8月摂政辞任。享保10年(1725年)准三后の宣下。同年12月24日に落飾し、豫樂院(よらくいん、現代では、予楽の字で表記されるが、『豫樂』と表記するのが正しい)と号する。

書道は、はじめ加茂流を学び、更に近衛家や他に伝わる空海・小野道風らの書に学び独自の境地を切り開いた。絵画は水墨画を好んで描き佳作と評される。茶道は慈胤法親王を師とした。有職故実にも堪能で、礼典儀礼を研究し、「唐六典」の校正を致仕の後、ライフワークにすえ、家熙没後刊行された。また、公家茶道に通じた茶人であり、『槐記』に見られるように、自ら茶事をおこない、侘び茶人との交流でも知られる。

なお、家煕の人となりや博学多才ぶり、高い見識のほどについては、侍医(専門は現代で言う小児科)で、茶人であった山科道安(やましなどうあん)がその言行を日録風に記した『槐記』11巻により、如実に知ることができる。

元文元年(1736年)10月3日薨去。享年70。京都市北区の京都大徳寺に葬られる。



てことだそうな

展示のなかでも家熙これでもかってくらい褒められてたけど
あれくらいすごかったらそれもうなずけるよ
いやぁ感動したーーー






とまぁ、ちょっくら日本史専攻っぽい記事をUPしてみました

この特別展は2月24日までやってるらしいから
是非見るといいよ
あれだけたくさんの国宝を見る機会ってなかなかないと思う
近衛家だけのものじゃなくて
近衛家が持ってたものだから
天皇の書(みんな書がうまい!)とかも見ることが出来ます

そんでその後は国宝薬師寺展ってのがはじまるらしいw
こっちにもいきたい!!!
仏像はいいっすよ~~~
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この記事のコメント
No title
私も行ってきたよー!
近衛家熙さんはマジすごかったね。特集されるだけのことはある!
「原典に忠実に」ってことが作品にも表れてて、すごいストイックな人だったのだろうなーと思ったさ。
あと、藤原道長は字が汚いねw
2008-02-09 Sat 02:10 | URL | #-[ 内容変更] | top↑
No title
ごめん、何故か名前が入らなかった;
さっきのコメント私です。
2008-02-09 Sat 02:11 | URL | きざき #-[ 内容変更] | top↑
おお~う
なんでだろ?最近名前はいらないこと多いねえ
すまんすまんw


おお!みんちゃんも行ったんだね!?
イエヒロふぁんになっちゃうよねwwwwあれはwww

そうそうミッチーめっちゃ字汚い!
読めた?
私はかろうじて、「今日雪降る」だけ読めたー
読めるとちょっと嬉しかったりwww
2008-02-09 Sat 15:25 | URL | bob #-[ 内容変更] | top↑
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